cyborg’s blog

たまに更新します。

高校卒業後の在り方と給付型の奨学金について

奨学金を給付型にするか否か、各政党が競って若者向けにアピールしています。

さて、今回はこの奨学金について述べたいと思いますが、高校卒業後の形態と絡めて所感を述べたいと考えています。

 

 

 

大学全入時代

 

この呼び名が使われて何年くらい経つでしょうか。

学校さえ選ばなければ、どの大学でも入学することができるという意味だったかと思います。

今後、大学の淘汰が進むとも言われていますね。

 

それはともかく、高校生は卒業後の進路として大学を選ぶ人が増加しています。

 

やくみつるさんではないが、ちょっと待った!

 

 

専門学校は優秀

 

かくいう私も大学を選択したわけですが、社会に出てから出会った人たちで、優秀だなぁと思った人に専門学校卒業の人たちが多くいます。

 

専門学校は専門学校だけあって、目的を持ったうえで専門の知識をたくさん仕入れて、学んできています。

 

大学院修士も含めて6年間大学に在籍し、24歳で社会に出たとき、自分よりもはるかに若い専門学校卒業生は非常に高い技術を有していました。

 

18歳、19歳の頃に多分に技術を吸収した彼らは、いわゆる若いうちにスキルを身につけているのです。

 

 

私は、実は大学に入学する人を増やすのではなく、高校から専門学校への流れを多く作るのが良いのではないかと思っています。

 

 

大学でももちろん学業あるいは専門知識を学ぶことはできます。

ただ、どうしても実際のビジネスの場においては上流部分を志向する人たちが多くなってしまうのではないかと思っています。

 

上流部分ばかりが増えると、理念だけが先行し、実現能力に欠けてしまう国に陥ってしまうのではないでしょうか。

 

では、なぜ大学に行く人が増えているのかと言うと、大卒あるいは院卒では基本給が高いことに見られるように、給与体系が良いところが多いのです。

 

つまり、上流部分は偉く、手足は誰でもできる、という考えが根付いてしまっているのです。

 

 

 

手足との格差を埋めるべし

 

職業に貴賤がないと言われるように、頭脳部分と手足部分に本来は格差を設けてはなりません。

これらはあくまでも役割の違いがあるという解釈のみに徹するべきです。

頭脳は頭脳の中で、優秀である人もいればそうでない人もいますし、手足は手足で優秀な人もそうでない人もいるはずです。

 

その中での格差はあってしかるべきだと思いますが、単純に頭脳と手足での格差はいかがなものでしょうか。

 

 

短大のすすめ

 

自分が大学を卒業してもう15年以上経過するのですが、当時を振り返ってみると、やはり学士での大学4年は長すぎると思います。

その間に積むものもあるかもしれませんが、目的意識をもたないまま、ただ単に社会公認の遊び人として過ごした方も多いはずです。

 

結果、当時は大学院への進学率もあがったはいいが、研究者としてはポスドクが増加してしまいました。

 

私は、むしろほとんどの大学を2年生にすべきであると考えます。

遊びたい気持ちも分からなくはないですが、卒論期間含めて2年で十分です。

 

実際に本格的な研究は大学院になってからするとも言われてます。

大学は短大生にして入口は広く、しかし人口希望では専門学校を増やす。

 

大学で本格的にさらに勉強を進めたい人に向けて、大学院の入口を狭め、その代り修士を4年にする。さらに学びたい博士課程は現状のままで良いが、入口はさらに狭めても良いかもしれません。

 

 

 

20歳で社会人

 

短大と専門学校を人口規模でのメインストリームとして、社会に出る多くの人が20歳。

(留年や浪人は例外)

そうすることで、税収の安定化あるいは、労働人口の増加を目指すのです。

 

なんとなく大学に行くのが本来のありかたといった漠然とした社会風潮をなくしたいものです。

 

将来の設計は大学に入ってから考えても遅くはないという意見があって大学への流入が増えている部分もありますが、目的意識のないままぶらぶらする場合でも2年あれば十分でしょう。

 

大学での知識が役立ったと表面上言っている人は多くいますが、果たしてそうなのか。疑問に思えるシーンがあまりにも多い。

 

人間力の育成あるいは税収、社会体系を考える上で、高校卒業後の人の流れは再考する余地があると考えています。

 

時間はかかるでしょうけれど・・・。

 

少子化でこれから若年人口が減っていくなかで、どのようなマインドを持った人間に育てていくか、彼らの幸せのためにも、重要な問題であると考えています。