cyborg’s blog

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水俣病訴訟判決

長期にわたる水俣病訴訟についてついに最高裁での判決がでた。
原告側の勝利である。
ここで考えたいのは被告は誰を守ろうとし、原告は誰に過ちを認めさせたいのかということである。
国の責任を問いたいと言うのが原告の主張である。
ここで言う「国」とは水俣病対策を早期に図らなかった政治家のことではないのか?
原告は実際の被害者であるが、被告は必ずしも加害者ではなく、むしろ加害とは関係ない人たちである。
実際の加害者は既に世を去る、あるいは年老いて一線を退いた政治家である。
だとすると、環境省の反省の弁はどこから来るのであろうか。
政治家あるいは国家公務員は先輩たちの泥を自分がかぶるという気持ちを持たなければなってはならない職業と言うことであろうか。
また原告側の環境相に対する言葉として「国は謝罪すると言いながら、全く反省していない」というのは、誰に言っているのか。
政治家であれば先達の罪をかぶりなさいということなのであろうか。
だとすれば、あまりにも政治家に対する国民の要求は高すぎるのではないだろうか。
原告側の被害を考えれば誰かに罪を認めさせたい気持ちは分からないでもない。
しかし現在の政治の前線を担うものたちにそれを望むのは非常に酷とも思える。
「実際の加害者」に求める、あるいは「国からの謝罪ではなく救済」を求めるというのが妥当ではないかと考える。
(「反省が感じられない」という原告の台詞からは救済ではなく謝罪を人に求めている)
最高裁の判決自身も「国」に対する不作為を認めるならば「国」の定義をしっかりとなすべきではないのか。
「国」の定義を曖昧にしたままのように思える本判決は、やはり原告側の情状を考慮した上での感情に流された判決であるように受け止められて仕方がない。