cyborg’s blog

たまに更新します。

世の中の動きに取り残されているが・・・・・・

昨日、外で晩御飯を食べていると、隣りのテーブルに座っている奴らが「政治って必要なのかね?」といった話を展開していた。
僕の考えでは、結論としては「政治は必要なのである」、「政治家は今の政治家である必要はない」といったところか。
昔からの政治家の遺産を引き継ぎ、とりあえず政治家が統治しているという形があるという点においてのみ、今の政治家は政治家である意義がある。
それは世界各地の無政府状態の国々の状況を見ていれば分かる。
無政府状態とは即ち無秩序状態であり、紛争へと繋がっているのである。
秩序がないところでは、人間の欲望という面が暴走してしまっている。
結果、生活が貧しい人々が増えるだけでなく、人が人を殺すということが日常になるのである。
「人が人を殺す」ということが日常でないことは政治家がいることの功績であろう。
が、これが今の政治家以外の人が政治家であったとしても、上記のようなことは当面はなかろう。
そういう意味で、「政治家が今の政治家である必要はない」のである。
その他の面においては返って弊害もあることだし。
ついでに言うと、「人が人を殺す」ことが日常的に起こることを悪としない価値観が根底にある地域であれば、政治・秩序も不必要ということになる。
そこの価値観を異にする人たちとはさらに根底のところからの話が必要になってくる。
さて、話を戻そう。
政治家が「その人でなくては駄目だ!」という人が出てくるとしたら、僕の中では、国民のことを考えるのではなく、国のことを考える人だと考える。
世論のことは8割方考えなくてもよいのだと思う。
何故なら、世論というのは「欲望」の側面が強く、それは秩序とは逆をいくことが往々にしてあるのである。
かと言って、欲望を全く持って排除となると、それはそれで非常に危険である。
それこそ共産主義というか一党独裁というか、独裁者の国になってしまう。
欲望と秩序について言わせてもらう。
僕ははっきり言って日本人が嫌いである。
そういうと語弊がある。
個々の日本人は好きである。飲み屋で一杯傾けている時に傍にいる人たちは好きである。
個々の意見や考えを聞くと、その人たちのことは理解できるし、好きにもなる。
嫌いになることなどたまにしかない。
これが世論という名の意見の集合になると大嫌いなのである。
世論におもねる政治家とは悪い政治家なのである、と考えている。
つまるところ良い政治家は、きっと、欲望と秩序のとらえ方のバランス感覚が非常に上手い人なのである。
世論におもねるところとおもねらないところを上手く使い分けるのである。
個々の日本人が好きであると言ったが、結局は多くの人たちが自分の言っていることが欲望なのか秩序なのかは心の奥で理解しているのである。
世論におもねらない政策をとった政治家が必ずしも支持率が低くなるというわけでもないのだから。
そういう意味で、世論が嫌いとはいいつつも、根底ではいい意味で成熟している国家・国民だと思っている。
さてついでにもう一つ。上述の独裁者の話。
独裁国家とは悪い国なのか?
決して悪い国ではないのだ。
むしろ独裁者が賢ければ、その国は下手な民主主義国家よりは豊かな国になり、国民たちも満足度は高くなるのだ。
湾岸署のどっかの刑事が言っていた台詞であるが、「いいリーダーならば、組織も悪くない」というやつである。
ただ、独裁国家の弱点というのは後継者も優れているかどうかという点において不安・弱点があるのである。独裁者が後継の育成や後継選びも完璧であれば、たとえ独裁国家が続いたとしても、きっと幸せな国が続くだろう。
が、良君とは概して現在の内政や外交つまり「現在」に比重を置いて唄われることが多い。
しかして後継者が悪いことがしばしばあるのだ。
逆に民主国家は今の政治家が優れていなくても秩序が保てるように、リターンが低くてもリスクも低いのである。
独裁国家とはハイリスク・ハイリターン型、民主国家はローリスク・ローリターン型である。
ローリスク・ハイリターンがあればいいのだが、これは私が生きてきた30年強で学んだ範囲では、「そんなものはない」
そんなことを考えながら、部屋の中を見回してみる。
難しいことをごちゃごちゃ考える暇があったら、とりあえず部屋の中を整理せねば・・・・・・。